インドネシアの国歌を作詞作曲し”独立記念日”当日に35歳で亡くなった天才バイオリニスト

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インドネシアの独立記念日(8月17日)

インドネシアの国歌を作った人。ワゲ・ルドルフ・スプラットマン(Wage Rudolf Soepratman、1903年3月9日 – 1938年8月17日)。中部ジャワのプルウォレジョ出身。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wage_Rudolf_Supratman.jpg#/media/ファイル:Wage_Rudolf_Supratman.jpg

インドネシアの独立記念日(8月17日)。

インドネシアが国家行事として、とても力を入れている祝日です。

独立記念の式典でも流れる国歌Indonesia Rayaは数ある「国歌」の中でも本当に素晴らしい趣を秘めていると思います。
精気が沸いてくるような曲ですよね😀
この素晴らしい曲を作った人が誰だかあなたは知っていますか?

インドネシアの国歌を21歳で生んだワゲ・ルドルフ・スプラットマン

旧50,000ルピア札。よく使っていたのに、いつの間にか新札にかわってしまった。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Indonesia_1999_50000r_o.jpg#/media/ファイル:Indonesia_1999_50000r_o.jpg
ジャカルタにはW・R・スプラットマン通り (Jalan WR Soepratman)という名前の通りがあります。
そう・・
彼は国家の英雄として、その名が通り名に刻まれているのです!
ジャカルタ以外の都市にも同じ名前の通りがあるはず。
インドネシアの国歌を作詞作曲したのは、中央ジャワ生まれのワゲ・ルドルフ・スプラットマン(Wage Rudolf Soepratman)なんです。

生粋インドネシア人の彼、オランダ人のふりでオランダ学校で学ぶも退学処分に

1997年の切手に描かれたスプラットマン氏。今は切手を使う機会もなくなってしまった。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wage_Rudolf_Supratman_1997_Indonesia_stamp.jpg#/media/ファイル:Wage_Rudolf_Supratman_1997_Indonesia_stamp.jpg

お父さんが王立オランダ領東インド陸軍(KNIL)の軍曹だったので、彼はそのお坊ちゃんとしてオランダ式の教育を受けて育ちました。

でも彼のルドルフという名前はオランダ人と同等に扱われるようにと親がわざと付けた名前。
ヨーロッパ系の血が流れていないことがばれ、まだ10歳前後だった時に退学処分に。
退学後、郷里でギターとバイオリンを学んだのは、まだ中学生そこそこの歳。
その後はマレー語の学校で学びお兄さんのひとりからバイオリンをプレゼントされた彼はますます音楽にのめり込んだのでした。

 

インドネシアラヤを作ったのは21歳の時

Indonesia Rayaが生まれたのは1924年。
なんと彼はまだ21歳でバンドンにいる時に作詞作曲したのでした。
歴史に残る1928年「青年の誓いの日」。
集まっていた人々の前で彼は自らバイオリンを弾きインドネシアラヤを披露。
後に大統領になったスカルノがこの曲を採用。
その精気あふれる旋律や歌詞は
人々の心をつかみ
瞬く間に有名になっていったのでした。

インドネシア独立前の”独立記念日’に亡くなった彼

国歌の作者についての映画があるよ
彼はなぜだかインドネシア各地を転々としていました。
天才は時として早く召されるのものですね。
30歳の頃から心臓を患っていたのです。
1938年「8月17日」スラバヤで、35歳の若さで亡くなった時、彼が夢見たインドネシアと言う国家はまだありませんでした😥
亡くなってちょうど7年後の全く同じ日である「8月17日」インドネシアは独立を宣言したのです。
なんという一致なのでしょう・・

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